そみみんのパルプンテブログ

初代おはガールが語るテレビの裏側

紋切型モンキー、愛し愛されisolated

postmodernismの凋落
アンソニーギデンスなら再帰的近代と呼ぶだろう←こういうの。
近代とは常に自らのシステムを問い続けるマッチポンプ的役割
 
社会構築主義、社会構成主義constructionism(ラベリング理論の系脈をひく社会学とはズレている。もうちょい広義に
 
例示、ジェンダーセクシュアリティ研究。性差が社会的に構成された←ボーヴォワール以来、近年もはやsexがgenderに他ならない(ジュディスバトラー
 
フーコーの言説分析や物語論とあいまって、文学哲学歴史学社会学などでnationalismや国民国家脱構築を繰り返すことは豊穣な成果、そしていくつかの隘路
 
nationalistすら構成主義的な見解を領有し、全てが物語ならより良い物語を作ろうと
 
だからすべきは国民国家の幻想性の指摘ではなく、幻想でありつつ執拗に回帰するnationalismのあり方の新たな語彙を模索
 
 
80年代はニューアカデミズム、浅田彰中沢新一ら思想家のスターの活躍でpostmodernが入るも
90年社会構成主義へ政治性を帯び、左旋回、ダウナー系、楽しくない、マチズモ、排他的異性愛主義、nationalism否定
 
しかし政治性のインフレである。リチャードローティ文化左翼批判とも共通。アナクロニズムというわけではないが、新たな政治的なものの定義必須。
 
政治学はどうなってる?国家という言葉プレゼンス増。佐藤優国家の罠、国家論、萱野国家とはなにか、藤原正彦国家の品格、しかし対応できてない。近代国家成立以来の転換期である。
 
アーネストゲルナー「産業社会がnationalismの産みの親」
しかし、経済のグローバル化によりnationalism国民の統合厳しくなっている。
クリントン政権労働長官ロバートBライシュの例。フォーディズムケインズ主義により妥協による国民統合可だった(Proletariatもbourgeoisieも協調するメリットがあるという下部構造あり)
しかしグローバル化により破綻、われわれは別々の船に乗っている。日本国民とかいう言葉が空っぽである。
terrorismに対するsecurityくらいしか共通利益無し
 
方法としてのアジア倣い方法としてのnationalism
アンダーソン、想像の共同体、、出版資本主義からnationalism形成へ
エリックホブズボーム、作られた伝統
ゲルナー、民族とnationalism、、農耕社会から産業社会の変遷の過程でnationalism形成へ
 
しかしnationalistはもっと原初的と考えていてズレが。
 
読み解く。方法としてのnationalism
 
アンダーソンの議論の過程で、「国民は主権的なものとして想像される」
これが既にフランス革命の経脈
正統性legitimacyの変容、国民国家の誕生
その際王朝、王権の側はlegitimacyを奪われたため王朝=nationと偽装、公定nationalism
ここでベクトルが入れ替わり、下からではなく上からのnationalismへ。国家は国民のもの、から、国民は国家のもの、へ
パトリや血をnationの重要要素へ
原初性の偽装
ここにおいてのみ解体すべき。
また、政治的には有効な方法であることも留意すべき。
 
バブル崩壊以降国家=フィクション論が思想家の主流、社会構成主義の一つの形、しかしこれは愚か
 
そもそもフーコー研究したら、全然社会構成主義じゃない。知の考古学には真逆のこと。しかし「言説により社会的現象は構成されている」という見方が安易にフーコー由来のものにされてる。
ジュディスバトラーのフーコー理解はショボい。
国民や国家のfiktivな偽装はそれはそれで問題だ
国民は置いといて国家とは何か?
今合法の暴力を独占してる。マックスウェーバーの定義に等しい
国家に認定されれば暴力可能
即ち国家とは暴力への権利の源泉
ある暴力を抑え込むには上回る暴力を。
それにより合法な暴力と違法な暴力の区別を確立する、国家の存在を成り立たせていく
人々の権利の境界を引く
この状態も近代主権国家誕生以来の4〜500年、それ以前はヨーロッパ中世のフェーデや日本の戦国時代の農村など、どこかに合法的な暴力が独占されているのではなく、あらゆるagent
暴力regime変化、国家へ一元化、暴力が付随的なものに見えてくる、不可視化する
 
主権がキーワード
ルソー社会契約論が思い出される。奇怪。
ホッブズは明快なのに。
主権者は王で、混沌とした自然状態から秩序を生み出すため人々は王に権利を譲る。
対してルソーは主権者は具体的な人物ではなく、一般意志を作る集団。
一般意志と個人の意思が食い違うことはない。となると人民が主権をコントロールするのはわかりやすいが思想史的には基礎付けむずい。
 
白井
ゲルナー、民族とnationalism、官僚組織はmarginalな存在main、
しかしnation stateな時代になると、誰もが試験を受け官僚や政治家になれる。そんな危険な事がなぜ可能か?むしろ望ましいとさえ?
我々は皆哀れなほど去勢されているから。
実際社会契約論では、「人間性を作り変える」という言葉が。
政治学的思考の中心の一部に今でも位置。
ジョンロールズ「無知のヴェール」をかぶる=去勢されなさいということ、
 
スタロバンスキー「ルソー 透明と障害」
ルソーは近代人の社会に対し、未開社会を「高貴なる野蛮人」と言った
原初的共同体では内的な怒りや悲しみを直接表情に出す人々の透明な関係を結んでいたが、近代は表層と内面にヴェールという障害がかぶさっている。それを崩して透明な共同体をつくれば生き生きした生を営める。
 
橋川文三、日本の右翼nationalismの観点では一般意志は成立し得ない
右翼は超越者天皇の下で万人は平等、主権は天皇、つまり主権者としての人民は存在不可
三島由紀夫、葦津珍彦は、日本の一般意志とは天皇の大御心、国民主権と君権は一致するという見方
 
一般意思と個人意思の違いは一般意志を僭称する国家の意思と個人意思の違い
ルソーは中間団体を認めない。一般意思の成立が阻害されるから。しかし人民が国家をコントロールするという発想は見出せない。
ホッブズは自然に帰るか主権者王に従うかしかなく、この論理でも、暴力独占者である主権者のコントロール法が見えない。
 
主権と戦争は完全な相関関係
カールシュミットが近代の国家体制を評価するのも、こうした暴力の限定という点において
 
萱野稔人=国家を暴力の独占装置
しかしいま話題なのはちょい違う
nationalismには、一般意思の体現者who?って問題が。公定と草の根nationalismを行ったり来たり。だから国民が一般意思の体現者の位置を奪えるようnationalismを方法として使うことがあり得る。
しかし国家が暴力の独占装置ならそとそも一般意思の在り処関係なくなる。それでいいんかい?
 
マルクス主義的な国家=暴力装置論には一定の批判こめてます。
暴力に関してはそうやろ(震え)
まあとりま、最終決定する意思のあり方を開かれたものにするためにnationalismが有効というのは共通の見解でおけ?
 
つまり暴力は社会秩序の最終審級、その位置は一般意思が占めるべき。国家が暴力の正統な主体。そこでnationalism有効に。
 
最終決定なされる時の意思の方法論に関わってくる。
 
え?方法論とかなくね?ルソーの人民は一旦社会契約交わしたら、あとはバラバラに住み、やりたいことやりゃいい。するといつの間にか一般意思が立ち上がる。的な
 
ただやはりそこで主権の不可分性が前提となっている。
 
北田
ルソーの一般意思は曖昧ゆえ重要
一般意思と全人への適応性はどっちが先?
保守主義における伝統
個と国家の齟齬を論理的に媒介するための理論的フィクション
先程の中島岳志さんの天皇中心の美的一般意思もおもろい
三島由紀夫三島由紀夫にhommage捧げる宮台など、根源的に媒介項は天皇でなくても良かった。相対化できるかもしれんが媒介項は不可欠。宮台はもう少し込み入り、相対化しえぬ置換不可能な記号として天皇を定義。
 
ところでルソーは積極的自由の体現者とも。
バンジャマンコンスタンが仮想敵としてた。
公共的空間に能動的に関与することで国家を律する、方法的nationalismに近接してくる。
共同体主義のなかには、バリバリ共通善から、この自律尊重まで様々
自律尊重タイプのコミュニタリアンの中には丸山眞男に共感する人多い
方法的nationalism、丸山的nationalism、自律重視型communitarianismは近い?
 
その通り、かつ陸羯南「近時政論考」で、nationalism(国民論派)は近時に生じたる新論派で、日本では明治政府の欧化政策に反対して起こった。フランス革命のとにフランス国民が王政の圧制に反対して起こったのと同じ。
つまり国民の主権と平等の問題を巡り生まれた。
だから自由民権運動においてnationalismは重要
日本右翼の源流、玄洋社が生まれた理由もわかる
小熊英二、1950年代革新nationalismの中で、民主と愛国が一致するprocessを見ている、自由民権運動に一体化し誕生。陸羯南の発想こそ保守リベラルという立場の一つの基点。
 
方法としてのnationalismをルソーの問題と絡めると、アイデンティティ存在論的実存の問題が関わるはずだがその態度はとらない。なぜなら公定nationalismの偽装が原因であり、本来の実存はnationalismと違うとこにあるから。それは神や仏、形而上学的なもの。
つまりnationalismは自然的な受動的なものではなく、方法として存在する。だから一般意思とnationalismは分離すべき
 
北田
方法としてのnationalismにとって実存問題はirrelevant。国民主権に対する動機付け装置としてnationalism、個々人の実存の問題に関わらず、政治的な自由を個々人が持つために必要。ということですね。
でもnationalismに動機付けの強度備わってる?
萱野稔人さんの議論を敷衍すると、
「人々には自らの力を行使する権利があったのに国家に独占され、唯一正統な暴力を行使し得る国家を国民はコントロールすべく、その動機付けとしてnationalismが必要」
しかし今日善の構想が多元化、動機付け可?
 
動機付けにはなる。∵政治家や官僚が汚職したら国家を私物化するなって言うじゃなーい?
ただ疑問あり。nationalismにおいて実存即ち承認やアイデンディティの問題と、国家の決定プロセスに参加し国家コントロールする問題、分離可能?
なぜなら国家は我々国民が、って我々国民って誰?ってなる。そこにアイデンディティ必須となる。宗教的nationalismなら共通の神信仰、血統nationalismなら誰から生まれたか。
そしてだからこそnationalismは国家へのcommitmentの強力なmotivationとなりうるのだろう。
 
北田
白井さん質問。国民なきnationalismの話初めの方してたね。国民の共通利害もはやセキュリティくらい。そんな国民なきnationalismは、中島岳志さんの言う方法としてのnationalismとはおおよそ異なる、頽廃したnationalism。
つまり中島岳志さんの方法としてのnationalismは魅力的だが、白井聡さんの国民なきnationalismの存在感高まってる。
severeな白井さん、中島のどう思う?
 
nationalismはそもそも伝統とか万世一系とか関係なく、主権在民という発想くらいの意味にすぎない。とも取れる
論理的には確かにそうもとれる
しかし現実を見ると契約論的な手続きのみ、主権在民という原則の感情的表現としてのみ存在するようなnationalismというのは存在しない。
なぜなら、シンボルを一枚噛ませないと一般意思みたいなものは立ち上がりようがないから。
ルソーはその噛ませを排除しモデル化してた。しかしnationalismは身も蓋もない契約によってできるとされる共同体の余白に亡霊のように取り付いて存在してきた。これが近代経験。
なぜそうならざるを得なかったのか?
nationalismのシンボル操作というものの両義性。
nationalism的symbolにより「我々国民、我々国家」というものの捏造されているのと同時に、その捏造があるからこそ「我々国家を我々国民の手で支配しよう」という動機付けも生じるのでは。
萱野稔人さんはメンバーを線引きすることがnationalismだと仰ったが、ある特定のsymbolにsympathy持つかを基準に線引き。
そこから質問に答えると、国民なき頽落したnationalismと僕の論を纏めたのは基本正しい、何はともあれsecurity、なら自由民権運動時の「よしや節」の反転versionをみんなで歌っているということ。「よしやcivil市民生活は不自由とも、political参政権さへ自由なら」今逆。夜警国家たれ。と。
しかしこの基盤は従来のnationalismのシンボル操作と親和性ない。
なぜならsecurityは先進国にとって命懸けで確保するのでなく、購買する商品にすぎないから。
小さくはセコム、大きくはアメリカ。まあそもそもsecurityってそういうもんだろね。
するとアイデンディティを巡る線引きは、既存のnationalism的symbolへの感情移入の基準ではないだろう。だってそのために命かけないでしょ。国民国家のために命を賭ける考えより、金で安全を買う考えが勝ると、nationalismの内的性格は変わると考えます。
それを国民なきnationalismと名付けられると思うが、まあ要考察ですね。
ところでベネディクトアンダーソンの想像の共同体は紋切り型の国民国家批判論の一大源泉的になってたが、中島岳志さんの基調報告の要約新鮮でした。つまりマルクス主義の構図だったのだ!単純に言うと、公定nationalismは支配階級が大衆を飼いならすための便利なイデオロギーだと。
第一次大戦後の第二インター破壊を持ち出すまでもなくずっとある構図。nationalismは常に支配階級のイチジクの葉か、もしくは自己欺瞞的虚偽意識と化す。
そんな社会で中島岳志さんの仰った方法としてのnationalismかいかにして実効的かは甚だ疑問。実効的であるには、方法としてのnationalismはsymbolを超えたより根源的なものである必要があるが、一方実存的領域に踏み込むことをどのように禁欲するか?
 
アイデンディティ、実存について別観点から。
デリダ主著グラトロジーについて、は半分がルソー論。
自己矛盾あり。スタロバンスキーが示すように透明性を達成するために何故か障害を導入してしまう。社会契約論とÉmile、自己矛盾。
そこで、自己矛盾は豊かでおもろいが、矛盾を迂回する社会思想あってもよいのでは?
ホッブスは暴力の管理、ロックは所有権の確保、だがルソーは意思、つまり人間単位。メンバーシップの問題。
そうではない社会哲学は?
マルクスは、社会を商品の集合と捉えた。社会について考えるとき人間のmembershipから入るとdeadlockに乗り上げがち。
ロールズ正義論、よくできたliberalismの理論化、しかし一国平等主義という批判が出る。
違う文脈から補助線引こう。オーストラリア生命倫理ピーターシンガー、功利主義者、interestを基礎に倫理再構築。
しかし優生学的との批判。怠惰はinterestなし、堕胎は罪でない。
霊長類は胎児よりinterestあり。
そのような過激な主張の背後に一貫性があるのは疑いようがない。
社会は人間により作られ、仲間かそうじゃないか分け、自分たちの政府をどうコントロールするか、どうシステムを作るか考えることこそ政治だと思ってしまってる。
その極端な条件を示したのがカールシュミット「政治的なものの概念」。彼は友と敵を分けることが政治と規定。えー、なんとかしてmembershipの概念から社会思想を立ち上げる障害乗り越えたいー。
 
もともと国民主義の提起するmembershipは国家決定processに誰が参加できるかというとこから始まっている。
中島岳志さん、自由民権運動は国民精神と結びつきとのこと。今迄政府の決定processに関与してた武士が平民になるときね。
国家の決定においてアイデンディティ上のmembershipを切り捨てるのはできるかも、でも、誰が決定するかという問題はどうしても残る。
 
決定の最終審級はそんなに明確?
Internetの形を決める最終審級はない。その決定は様々な審級で複合的になされ、それが現代社会のコミュニケーション環境を作っている。
常にmembershipの話に還元する必要はないのでは?
 
北田
membership考えなくても、つまり誰が決めるか、を予め決めてなくても自動的に社会回んの?
シンガー、人格になるのいつ?メタ線引きが、市場的なメカニズムや競争による淘汰、神の見えざる手に導かれて決まるとは思えん。
 
社会問題にはmembershipを必要としないで解決されるものも多いよねって言いたかっただけ。
幽霊部員とかの存在。ルソー的な一般意思導入したら曖昧さが存在できなくなる。
 
北田
僕もゼロイチで分けようって言ってるわけじゃないです。
決め方の具体的方法はvariationあるにせよ、誰が決めるか手続き的に決めとくことは尊重すべきideaでは?って言いたい
妊娠中絶然り、nationのメンバー誰か?に然り。人為的な要素、文化的暴力の介在は仕方ないでしょう。その時萱野稔人さんの言ってた、唯一正統な暴力を独占する国家の公的な決定が重要に。
 
法ね。つまり。最終審級は。(形だろそれはあくまで)監修とか技術的条件とか多重決定やん。で国家が社会の最終審級?
それじゃ最終的にmembershipの問題に落ち込むやん。私たちの社会の私たちを抜いた形で社会管理できんかね?
ルソーは、私たち、とかなく、個人が何か=一般意思に繋がる!ハーバーマス的討議的理性とか要らん的な内容を言ってる。
 
多種多様な意見を持つ人が率直に話し合っていつのまにか一般意思が立ち上がり社会がコントロールされる。それが正しくよい社会と思われてるが、話し合いが始まる以前構成員を決定するところに強力な権力の集約点があることに。ここにnationalism批判が来て、nationalism不可避論も出てくる、この円環から脱出できないか?ってこと
 
話戻すと国家の決定は色々影響される。
慣習とか市場の動向とか。
国家が決めてるのは社会の権利の体系。
所有権と、暴力への権利が大事。それ以外は派生的な、越権的な事態ではある
だから贅肉削ぎ落とそうや、membershipをなるべく形式的にしようや
 
はあ。議論の見通しよくするよ。
中島岳志さんの方法としてのnationalismに反対なの僕。
membershipの議論呼ぶやん。
古い問題に戻る感じする。
 
membershipの問題は切ってもきれんよ
 
メンバー誰か、構成員どうやって決めるかは国家側から考えたらわかるっしょ
契約論的、ゲゼルシャフト的なもので装置として決める。それが個人のアイデンディティや実存に踏み込んだら問題だと思う
ここには公定nationalism的偽装processあるはず。
 
membership抜きで社会構成は無理じゃね?
フーコーっぽく言うと、誰を生かし殺すかという線引き起こる。
その暴力を国家が独占することへの疑いを持とうという東浩紀さんの問題意識には賛成です
暴力の組織化のあり方を変更!
 
さて萱野稔人さんや中島岳志さんが言った、membershipはできるだけ形式的にでき、また承認とは区別すべきだ、というのは基本賛成。
しかし固有のアポリアあるでしょう。
宗教的世界観衰退以降、生死に関わる実存的世界観を担保するのはnationalismくらい。
中島岳志さん、国家介入ダメって言う。例えば宗教とか。(一枚噛ませる的な話ししてたやつ)
でも宗教戦争の結果宗教を棚上げして国民国家成立した経緯あるし、、
 
個別宗教とメタ宗教わけましょ。
個別宗教は道の違いで真理は一つ。
京都学派が大東亜戦争中に迷路に嵌ったけども、限界をとっぱずせば理論的には対立を前提とせず究極のアイデンディティ導けるやろ
 
北田
近代の超克論は、倫理的なメタ審級に位置するメディアとして日本を立てた倫理思想。
de factoメタ的地位確立により中身を相対化する形式主義は、それ自身が一つの中身へと滑り込んで行く。cf globalizationとアメリカのメタ的地位、マルチカルチュラリズムとそれが抱える理論的政治的問題などなど。よくある事
 
再びmembershipの話に戻って来てる。
特定のmembership乗り越えるためメタmembership考えたら、それが排外的になってしもうたという。だから決定審級がひとつってのがおかしいと思ってる。
ロックも市民政府二論で、征服したら財産は取れないけど殺すのはオーケーって言ってる。茅野さんは身体過剰に重視してね?
 
いうて身体への権利失ったら財産への権利失わね?ホッブスはダメって言ってる
 
ロックは具体的には遺産ですね。
最終的に、を問うたら萱野稔人さんの議論になるかもだけど、違う視点あるのでは?
でその視点から見たら、ルソーの社会契約論はいろいろ間違ってんじゃね?
ルソーをロールズからじゃなくハイエクから読み直せないか?
ルソー的思考から始まったnationalism論的なのを何とか換骨奪胎できないかというところで、membership問題に拘ってるんです
 
ルソーの社会契約論からnationalism論いくのは飛躍あるって思ってたー←わお
フィヒテドイツ国民に告ぐ」の国民共同体とルソーの考える国家全く違う。
永遠の精神的存在か、純粋の人工物か。
 
会員制クラブ化、金払ってんだからサービスだけよこせや、と、でも間接的にgovernanceに関わる消費者の多様な決定審級に合わせ、利益の最大化より公共的責任が大切になって来ている、そこでnationalism論が要されてる、とか考えられる。で、その外に出たい。
 
私企業のgovernanceならまあ株主が決定審級でしょうなあ、形式的には。ただ言いたい事めっちゃわかるー!
 
北田
丸山真男卒倒するなこれw
 
ハンナアーレントに影響受けてます僕。
上からではなく、参加する意思。そのprocessがdemocracy。それが僕にとっての方法としてのnationalism。
 
北田
そこまでいくのはみんなだるい、でもそこに漸近する必要はあるよねー。
 
選挙に行かんから関心がないとかじゃない。各々の公共圏があり、分散した公共性をうまぬ社会全体に還元できるシステム作れんのか!って。今もう議会制民主主義とかほぼ形骸化しとるやろ!
 
でも議会制民主主義を必要とするのは国家の方ですよね。
 
ね。東浩紀さんの話きいて、メタアナーキズムを思いついたよ。
ただのアナーキズムは結局国家に囚われてる。
国家の存在は渋々認め、でも、俺邪魔しない限りね、っていう。
でも丸山真男が批判した江戸期の本居宣長の姿勢と近い。日本のある種の知識人に多い。
だから東浩紀さんの言葉は「慶安の御触書の精神に戻れ」ともとれる。
農民は楽だな、年貢納めてりゃいいもんな。
って。プレモダン的とも。
徹底的疎外なのか、そもそも疎外がないからなのか。
前者だけど頑張って見栄張ってる感あるよね。疎外なんかされてない!って。
国家は会員制クラブと違い退出可能性なし。
でも国家のコントロールに興味なし。
これが理由ね、
 
とはいえメタアナーキズム好きなんよ。新しいgovernance、退出可能な、そういう形を模索すべきと思う。
 
北田
国家は小さな公共性の乱立をメタレベルで調整しろってこと?
 
そう。
 
北田
ハーバーマス主義者的なとこあるよね。
ポストハーバーマス的な公共圏論、小さな公共圏の上に倫理的に国家が屹立するのではなく、横で物理的暴力を調整する装置であれ!と。
 
まとめ
北田
白井聡、国民なきnationalism
中島岳志、方法としてのnationalism
萱野稔人、国家は暴力の独占装置
東浩紀、membership問題から離れろ!
構成主義からだいぶ抜けて来たんじゃね?
 
嫌韓とかぷちなしょの話しなかったんですわざと。それ予期してるのが既にダメだからね。
大きな話題をあえて原理論的に考えましたとさ。
 
 
 
感想、、
 
東浩紀は問題意識抱えてるが、割と落ち着きがない。相手の凝り固まった部分を発見して再認識するよう促すのはうまいので、ソクラテスの問答法的ポジションか。
筑駒卒で現役で東大。話し方や考え方から、筑駒の個人主義的雰囲気プンプンした。
どんな苦労をして来たかは分からんが、自分の発想の正しさへの疑いは少なめ。それはしかし、そういう人は必要な存在だから、やっぱすごいなとは思った。名門、高偏差値な人生辿ると、ついつい周囲を相対化しすぎて、暴走気味になり、顧みる前にとんでもない言葉を吐く人がいる。彼もその匂いがした
だって俺がいた札幌農学校、同じクラスで将来の夢世界征服ってやつ2人いたもん。わかる?この感じ。「謙虚さ」の捉え方。謙虚さとはマナーとして守りゃなんでもいいと思ってるか、他者危害の原理っすね、それか謙虚さとは他者を心から尊重するか、みたいな。東前者だろ。てかこれは、男子校ってのでかいかもな。まそんなこと考えてもどうでもいいんだけど
 
ルソーをぶっこんで、ルソーからnationalism論いくのは飛躍っていう結論。割とあってなった。でもパネラー天才すぎて肉付けえげつなくて超有意義になってるけどね
 
こういう頭の中で絶えず問答繰り返して洗練してる系の人たちって、その中で確固たるstyleはその時々あるだろうけど、実際どういうこと考えてんだろうね、ってことでここを起点に、各人の著書や、思想に関わる原典へと回帰していきたいと思います